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よく旧高商は昔は凄かったと聞きますが、昔ってこんなに前の話ですか?今の役員世代であるバブル入社組が受験生だった1985年…

よく旧高商は昔は凄かったと聞きますが、昔ってこんなに前の話ですか?今の役員世代であるバブル入社組が受験生だった1985年あたりはどうだったのですか?全大学科目数同じのガチンコ勝負なので点数が全てです。公平に比較できます。 1961年の旺文社模試から見た大学入試難易ランキング(1961年8月号蛍雪時代より) ★が私大 ○が公立大 合格者平均点(法/政治/経済/経営・商) 東京大(文Ⅰ=法・経に進振) 222 一橋大(経済学部) 220 一橋大(法学部) 216 一橋大(社会学部) 213 一橋大(商学部) 211 京都大(法学部) 208 横浜国立大(経済学部) 197 京都大(経済学部) 196 神戸大(経営学部) 195 名古屋大(経済学部) 195 慶応義塾大(経済学部) 191★ 名古屋大(法学部) 187 神戸大(経済学部) 186 東北大(法学部) 184 大阪大(経済学部) 184 大阪大(法学部) 182 神戸大(法学部) 179 東北大(経済学部) 179 小樽商大 172 滋賀大(経済学部) 171 九州大(経済学部) 170 長崎大(経済学部) 170 九州大(法学部) 169 横浜市立大(商学部) 169○ 慶応義塾大(商学部) 167★ 関西学院大(経済学部) 166★ 慶応義塾大(法学部) 165★ 早稲田大(政治経済学部) 163★ 大阪市立大(商学部) 163○ 広島大(政治経済学部) 162 大阪市立大(法学部) 162○ 広島大(政治経済学部) 162 大阪市立大(経済学部) 162○ 神戸商科大※現兵庫県立大 162○ 北海道大(文類=文系すべてに進振) 161 大分大(経済学部) 160 山口大(経済学部) 160 都立大(法経学部) 159○ 香川大(経済学部) 158 富山大(経済学部) 156 岡山大(法文学部) 153 和歌山大(経済学部) 153 福島大(経済学部) 151 早稲田大(商学部) 151★ 南山大(経済学部) 149★ 金沢大(法文学部) 147 早稲田大(法学部) 147★ 上智大(経済学部) 143★ 同志社大(経済学部) 141★ 高崎経済大(経済学部) 135○ 熊本大(法文学部) 134 関西学院大(商学部) 134★ 上智大(法学部) 133★ 関西学院大(法学部) 129★ 成蹊大(政治経済学部) 125★ 中央大(法学部) 125★ 同志社大(商学部) 123★ 東北学院大(文経学部) 121★ 日本社会事業大 118★ 同志社大(法学部) 115★ 北九州大学(商学部) 115★ 青山学院大(法学部) 111★ 学習院大(政治経済学部) 109★ 関西大(法学部) 109★ 大阪府立大(経済学部) 108 関西学院大(社会学部) 106★ 立命館大(法学部) 104★ 松山商科大 104★ 立教大(法学部) 103★ 立教大(社会学部) 97★ 明治大(法学部) 89★ http://ameblo.jp/ssasamamaru/entry-10092068383.html 所感 全体的に経済学部や商学部が法学部より難しい傾向が読み取れ、高度成長時代の時代を感じる。 国公立 一橋の難易度が京大よりも高い。また横国の難易度も極めて高い。商業系の大学が強かった模様。 神戸大の難易度が非常に高く、昔文系は阪大より神戸と言われていた事を裏付けている。 樽商、滋賀大経済、横市商など戦前名門だった学部が色濃く難関として残っている。 私立 60年代初頭は慶應が早稲田より難関だった模様。早稲田の全盛期は60年代後半以降だろうか。 早慶に迫るレベルで関学が難易度を保っている。かつての関学の栄光が伺える。 上智大が60年代初頭から既に相応の難易度を保っており、この頃から既に上智法>中央法だった模様。 南山大が意外な難易度を誇っていた。謎。

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ID非公開さん

回答(6件)

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    昭和36年(1961年)の頃はまだ一期校・二期校の全盛期時代ですしまだまだ日本全体が池田勇人内閣による所得倍増論で高度経済成長を始めたばかりの時期でしたので全般的に地方を中心とする日本人全般の所得水準が低くて貧乏だった時代です。 従って地方の旧帝大や旧高商の国公立大学でも私立大学でも東京都の早慶をはじめとして関西の京都市の同志社大や兵庫県西宮市の関学大や名古屋市の南山大も仙台市の東北学院大も福岡市の西南学院大も地域ブロックの旧帝大(名大や東北大や九大)と併願される地方都市の有名私大はそれなりの難易度だったのです。 この当時は東京都港区立城南中の理科教諭で旧制上田蚕糸専門学校(今の信州大学繊維学部)で統計学を学んだ桑田昭三氏が昭和32年に中学生の高等学校への進路指導用に開発した『標準偏差+ 50』の数値で表す学力偏差値は旺文社の月刊受験雑誌である『螢雪時代』もまだ正式に採用する以前でしたので東大や京大や早慶をはじめとする各大学の難易度ランキングは当時の現役高校生及び浪人生が受ける最大規模の大学模試である旺文社模試(模試受験者約4〜5万人程度)の合格者平均得点率によるランキング表に基づくものでした。 ※ 1961年当時の大学進学率は男子15.4%で女子が6.3%(短大を含む)でした。 高等学校の進路指導も当時は保護者の経済的に制約された所得水準を考慮して先ず高校の所在する県や其の県を含む地域ブロックの旧帝大や旧制高等商業や旧制高等工業や旧制高等農林や旧制高等学校だった国公立大学への進学を最優先に進路指導するものでしたので基本的には入試難易度は完全に国公立大学>私立大学の構図となっていたのです。 その中でも早慶と同志社・関学は関東と関西の私立大学経済学部・商学部系統と法学部系統の頂点とされる大学だったのです。 そして学部については全般的に首都圏や関西圏や中京圏の大都市部の給与水準の高い大企業への就職に強かった経済学部や商学部系統に受験生の人気が集まり給与水準が比較的低かった公務員や厳しい何年もの浪人覚悟の司法試験合格が必要な法曹界へ進む法学部系統は入試難易度では経済学部や商学部系統に比べてその後塵を拝していたのです。 旧制東京商科大学の一橋大学の経済学部(220点)と商学部(211点)と法学部(216点)と社会学部(213点)は全般的に旧制京都帝國大學の京大の法学部(208点)と経済学部(196点)を難易度では凌駕し旧制神戸商業大学の神戸大の経済学部(186点)と経営学部(195点)と法学部(179点)は旧制大阪帝國大學の阪大の法学部(182点)と経済学部(184点)を難易度で凌駕していました。 一期校・二期校時代には二期校の雄の旧横浜高商の横浜国大経済は阪大経済(184点)や東北大経済(179点)や九大経済(170点)などの旧帝大の経済学部以上の難易度(197点)でしたし北海道では旧帝大の一期校の北大文類(161点)よりも二期校の小樽商大商学部(172点)の方が難易度は遥かに高かったのです。 この昭和36年(1961年)の頃はまだ東大文科一類(222点)は本郷の法学部と経済学部と駒場の教養学科のどの学部にも進める社会科学系統へ進む東大の教養学部の科類でした。(成績的には東大文科一類のトップ層から中堅層が天下の東大法学部に進振りで進み中堅層から下位層は東大経済学部に進んだのです) 勿論、本郷の経済学部で経済学を学びたいという成績が優秀な文科一類の学生もいましたが当時の東大経済学部はまだマルクス経済学者の大御所たる大内兵衛や宇野弘蔵等の影響が強くマルクス経済学のメッカでした。 シカゴ大学教授から東大に助教授として戻ってくる宇沢弘文や小宮隆太郎や根岸隆らの近代経済学者等が活躍する時代はまだ先の話なのです。 駒場の教養学科の国際関係論分科は外交官試験合格実績では本郷の東大法学部と並ぶ名門分科でしたので当時から東大法学部と並ぶかそれ以上の文科一類の成績優秀者の切れ者が少数精鋭で進学していました。 雅子皇后陛下のご父君の小和田恒元外務省事務次官も新潟県立高田高校から東大文科一類に現役で進み東大教養学科国際関係論分科4年在学中に外交官試験に受かり東大教養学科卒業後の昭和30年春に外務省に入省しておられます。 そしてこの昭和36年当時の東大文科二類は今の文科三類と同じく本郷の文学部と教育学部と駒場の教養学科に進む人文科学系統の東大の教養学部の科類だったのです。 後に昭和45年(1970年)の大阪万博の企画を通産省の官僚として取り仕切り、後に小説家としても活躍する堺屋太一氏(本名:池口小太郎)はこの当時の人文系統時代の東大文二に大阪府立住吉高校から二浪して受かり(現役で東大の滑り止めで受かった慶大法に1年通ったものの慶大をやめて東大再受験)東大文科二類に進学した駒場時代の成績が良好なので東大文や教育ではなく本郷の東大経済へ傍系進振で進み後の東大総長となる大河内一男教授の社会政策のゼミに参加し東大経済学部を3番の成績で卒業し昭和35年(1960年)に通産省へキャリア官僚として入省します。 この一年後の昭和37年(1962年)に東大は従来の文科一類を法学部に主に進学する(新)文科一類と経済学部に主に進学する(新)文科二類に分離して新たに人文科学系統に進む新しい文科三類と本郷の医学部医学科に進級さえ出来れば無試験で進める新たな理科三類を理科一類と理科二類にプラスして作りそれまでの文一と文二、理一と理二の文理4科類制から文一、文二、文三、理一、理二、理三の文理6科類制になるのです。 そしてこの頃は国公立大学と入試に数学や小論文が科されていた慶大経(191点)と慶大法(165点)と慶大商(167点)と私立文系型のトップの早大第一政経(163点)と慶大同様に数学必須の関学経済(166点)が私大トップGを占めていたのです。 この【私大トップG】の慶大経(191)慶大法(165)慶大商(167)早大第一政経(163)関学大経済(166)に続く 【私大第② G】は早大第一商(151)早大第一法(147)南山大経(151)上智大経(143)同志社大経(141)関学大商(134)上智大法(133)の130点以上の大学群で 【私大第③ G】は関学大法(129)中央大法(125)成蹊大政経(125)同志社大商(123)東北学院大文経(121)同志社大法(115)武蔵大(115)青学大法(111)関西大法(109)学習院大政経(109)明治大商(109)立教大経(108)甲南大経(107)西南学院大経(106)立命館大法( 104点)中央大商(104)松山商大(104)立教大法(103)の100〜130点未満の大学群となります。 【私大第④ G】は100点未満の立命館大経(99)立教大社(97)青学大経( 97)中央大経(94)明治大法( 89)明治大政経( 86)明治大経営(86)法政大法(78)明学大経(78)成城大経(77)法政大経(76)福岡大商(76)東京経大(75)日本大法(74)専修大経(72)関西大商(72)日本大商(71)近畿大商経(62)愛知大法経(61)と続いていました。 この頃は慶大経でも慶大法でも昭和32年に慶應義塾創立100周年に新設された慶大商でも早大第一政経と第一法と第一商を入試難易度では凌駕していたのです。 この当時の早慶の難易度の差は都立日比谷や西や戸山や小石川や新宿や県立浦和や湘南や翠嵐や千葉や北野や神戸や旭丘などの公立進学校や灘や開成や麻布や武蔵や栄光やラサールや甲陽や洛星や教大附や教駒や学大附や金大附や広大附の様な私立や国立の中高一貫校では数学と英語と共に学ぶ国公立大学や慶大経法商や関学大経の様な数学必須型の受験生の方が数学無しで英語と国語と社会の3教科に絞る早大や明治大や中央大や立教大や青学大や法政大の様な私立文系専願者に比べて圧倒的に成績優秀者が多かったことがわかります。 早大文系トップの早大第一政経が辛うじて慶大法の165点より2点下の(163点)のランクだったのです。 早大第一法(147点)と慶大法(165点)とは18点差があり早大第一商と(151点)と慶大商(167点)との差は16点差でした。 慶大の社会科学系統(経・法・商)のトップの慶大経(191点)と早大の社会科学系統(第一政経・第一法・第一商)の中の一番下の早大第一法(147点)との旺文社模試での合格者平均得点での格差は学研と並ぶ当時の日本最大の受験関連メディア産業だった旺文社の『螢雪時代』の出す統計では44点にも及んでいたのです。 これは国公立大学文系最難関の東大文一(222点)と阪大法(182点)との差(40点)に匹敵する数値ですね。 因みに当時の司法試験で東大法と毎年トップ争いを繰り広げていた法曹界の名門の中央大法は(125点)で明治大法は(89点)で法政大法は(78点)でした。 昭和60年(1985年)の頃も上記の昭和36年の大学ランキングとほぼ同様ですが既に昭和54年(1979年)に共通一次テストが始まり一期校・二期校制度は廃止されていました。 二期校の雄だった横国大経済は難易度が急落していました。 そしてこの昭和60年(1985年)の頃は上智大が外国語学部と法学部については早慶と並ぶかそれを凌駕するほどの最難関私大の一角となっていました。 又、上記の昭和36年(1961年)の難易度ランキング表では一橋大が京大を神戸大が阪大を難易度で凌駕していましたが昭和60年(1985年)の頃は京大が一橋大を凌駕し阪大が神戸大を凌駕していました。

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  • 1972年に父が受験しましたが その時の経済学部は 東大>一橋>京都>神戸>名大>大阪大 の順だったと言ってました。

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  • 質問からズレた余談ですけど。 安倍元首相が成蹊小学校に入学したのが、ちょうど1961年。 関東で、早慶の次にMARCHをすっとばして成蹊を選択したことは、別におかしな事ではない事がわかります。 当時の成蹊学園理事長は、三菱地所の石黒会長。戦後GHQによって解体された三菱財閥を再結集し、三菱金曜会を立ち上げた超大物。 実兄・安倍寛信氏も成蹊大卒。祖父・岸信介、父・安倍晋太郎の狙いはお察しですね。(実弟・岸信夫氏は慶應義塾幼稚舎)

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    2人が参考になると回答しました

  • 南山は「西の上智」のブランドがありますので下のリンク先の東進の学歴階級表の通り今でも南山の学歴階級はGMARCHレベルですから当時の難易度が高いのは意外ではありません。 http://www.toshin.com/curriculum/images/kouza_en.pdf

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